8050問題、7040問題、高齢ニートに限らず、ニートそのものの問題は1970年代の学校いじめによる登校拒否や、わかりやすい例としては、平成初期のバブル終了とともに訪れた就職氷河期、さらには「グローバリゼーション」の名の下に行われた市場開放に伴う製造業の国外移転に伴う工場や間接部門、そこから仕事を受けていた企業の合理化や仕事の消滅における「人余り」で、生活の地盤を失った人たちがニートにならざるを得なかった、かつ、一度離職すると再就職が厳しい、という「日本社会特有の病理」があります。
さらに8050問題特有の問題としては、支える側の親世代の寿命の問題、そしてお子様もどんどん「完治しづらい病気」になっていくことでの手詰まり状態になりやすい、気分が晴れない、という問題もあります。8050問題の当事者は、もちろん最初は頑張れない状況に追い込まれたきっかけではありますが、その後頑張らなかったわけではなく、自分たちなりに頑張って頑張って今の状況があるので、それをもっと頑張れ、ということはちょっと違うんじゃないかと思います。8050問題の発端は日本社会の病理ですし、問題を大局的に見ると社会問題ですが、個人に目を向けていくのが私どもの仕事であって、それは切り離して考えないといけません。
日本社会はさまざまな問題を抱えています。例えば少子高齢化問題もそうです。しかし、1970年代にはオイルショックなどの影響もあり、日本は人口が増え過ぎた、食料自給率も低くなった、あらゆるものを輸入しないと立ち行かない。このままでは日本は人口爆発で破滅してしまう論が席巻した時期があるのです。それで子供作りを自粛した人も少なくありません。(グローバリゼーションが人口爆発の問題は解決しました)
似たような例では、ノストラダムスの大予言、というのがあって、どうせ1999年に世界は終わってしまうのだから、頑張ったってしょうがないじゃん、という空気も一部ではあり、そのために結婚をしなかったり、生活を大きく替えてしまった人もいるでしょう。
さらに言えば女性の雇用機会均等法というのができ、それまで一瞬の時期女性は家庭を守れ、と言われていたのが突然働くのが当たり前だ、になり、ところが国会を見てもどこを見ても男社会が続いていて、女性はなかなか就職も登用も厳しい状況です。
核家族化問題自体も社会問題ですが、それも少子高齢化と密接に関係します。よく、社会問題を直近の政治家や法律や社会体制や大きな出来事のせいにしたがる方がいますが、多くはそうではなく、数十年前の社会問題の先送りによる深刻化や、数十年の積み重ね、さらにいえば、そういう土壌を醸成してきた100年単位の「日本社会のありかた」というのが問題の発端ということは言えます。
しかし、それを、今言ったから何になりますか? ということは私どもに突きつけられている問題です。
少子高齢化の原因問題を解決しても少子高齢化は数十年は全く変わりません。そもそも1970年代の論理で言えばもっともっと人口減少にしたかったわけですから、少子高齢化が社会問題と言えるのかも本当は疑問です。アメリカの人口密集度から考えれば日本の密集度はあり得ないほど高いわけですから人口減少してはいるけれども効率の良いシステムも実はたくさんあります。日本しか見ていないとなんでも病気、なんでも社会問題になってしまいます。
私どもは社会問題を解決することはできません。それは、日本人全体のこころを変えたり、常識を変えたり、ということなので、いかに法律を作ろうが制度をつくろうが、とてつもなく保守的な人たちの集まりであるこの国、そして老人大国となったことで既存の価値観以外のことを受入れるのがすごく大変な人たちと膝詰めで話をしていかなければいけないことを考えるととても労力的には難しく、成果がでるまで私どもが生きていられるかを考えると、あるいはお客様が生きていられるかを考えると無意味に考えています。
私どもの仕事は8050問題で苦しんでいる、できるだけたくさんの方の残りの人生を少しでも豊かに、少しでも楽しく過ごせるように働きかけることです。誰かを傷つけたり、追いつめたり、批判したりというのは、他の学者さんであるとかメディアの方のお仕事と考えております。