雑誌記事に「プライドが高い高齢者は助けを求めるのが苦手」という記事がありました。この問題はかなりセンシティブな問題であり簡単に語ってはいけない話ですので、私どももお話するのを控えていることではあります。記事としては「SOSを出せないために最悪の状況に陥る」ような話もあったと思います。

端的に言って、SOSを出せる能力とプライドは有意な因果関係は証明されていないし、たぶん関係ない、というのが私どもの立場です。これが相関関係にある、とすると、「プライドが高い人はSOSを出してはいけない」「SOSを出したらプライドを捨てないといけない」「ほとんどの人はプライドがあるからSOSを出せなくてもしかたないし、それで最悪の状況になったとしてもその人の問題で私たちには関係ない、自業自得」となりかねないです。それは違うんじゃないですか?

人間として生きる上でプライドというのはとても大切なものだと思いますよ。世の中にはプライドだけで生きている、という人もたくさんいるんです。ところが、病気で弱っている人とか、年配の人に「プライドを捨てろ」と言ったり、大きな会社などでは「たそがれ研修」と呼ばれる研修を実施し、その中でも「プライドを捨てましょう」的なことを言っているらしく、大変な間違いではないかと思います。

「日本人は幸せに生きる権利を憲法で保証されている」「私は幸せに生きるに値すべき人間だ」「私は他人から必要とされるチャンスがある」「私には能力がある」そういうさまざまなプライドを全部失ってしまったら、現状を打破しよう、改善しよう、というモティベートも難しいでしょう。

もちろん、プライドと、現状の自分の実力や世の中の情勢、運勢やタイミングなどとどう折り合いをつけていくかというのは誰しもがぶつかる問題ですけれども、プライドというのはその人自身のアイデンティティと密接につながっているものでもありますので、プライドを否定されると人格を否定されたように受け止められてしまうこともあります。ですから非常にこれは繊細な問題です。

また、どうも現代日本社会は「過ぎる」という言葉を安易に使い「過ぎる」きらいがあります。「プライドが高過ぎる」「まじめ過ぎる」「マニアック過ぎる」「熱心過ぎる」「いい加減過ぎる」「やり過ぎる」「がんばり過ぎる」「正し過ぎる」「的確過ぎる」「優し過ぎる」「丁寧過ぎる」etc. 本来「過ぎる」というのは悪いことをしていることをいさめるための言葉であるため「過ぎる」を語尾につけることによって、その人の持っている良さを否定的にとらえたり、さも悪い事をしているかのように言う事になります。

これは、日本社会の根底に流れる「ふつうが一番」「ふつうじゃないとダメ」「できる人はできない人を傷つけてしまうからダメ」という暗黙知の発露でもあり、そういう状況が数十年続いてきたがために、国際競争力のない国になり国全体が落ちぶれてしまったように思います。「みんなと仲良く」ではなく「自分に合うコミュニティを見つけてその中で役割を果たせればいいじゃない」というのが現実的なんですけども、みんなが実現できる「ふつう」を目指していたら「憧れの商品」「思いもよらなかった便利なサービス」って出てこないのであって。

 

プライドが問題になるとしたら、その人の「ありたい自分」と「ありのままの自分(現在の現実の自分)」との乖離を認識し、それをどうやって埋めて行くのか、あるいは、「ありたい自分」を一緒に考え直してみる、という作業が必要になります。その作業をするためには、その人自身の心の傷を含めた自尊心、誇り、自負、といったようなものを他の人に正確に伝える必要があります。これはとても大変な作業です。

かつ家族だけではなかなか難しいところがあります。家族の常識、というのが、他者の常識と大きく乖離している場合が多いからです。一人で考えていると、迷路に入り込んでしまうだけだったりもします。ただでさえネガティブな環境に置かれていると思考もネガティブになりますから、どんどん落ち込んで行ってしまいます。

すごく能力がある人なのに、能力を一度も生かせていない、とか、一回(自己評価で)大きなミスをした、というだけで「私はもうダメだー」となりがちなんですね。そうではなく、「眠ってる能力があるのだから、その能力を使えれば立ち直れる、私はすごいダイヤモンドの原石だぜ、わーい」だったり、他人から見ても「なんでこの人、こんなところでこんなことしているんだろう」みたいなこともいくらだってありますよ。

特に日本では「あなたって変わってる」とか「あなた変」「あなたは私に合わない」「あなたはうちの会社には合わない」という配慮に欠けることを平気で言う人もいまだに多く、言われた側はすごく落ち込んでしまうものです。日本でパラリンピックをやる、ということで、世の中は変わるのかと思ったら変わらないですね。そうじゃないんです。「あなたは個性的」ということです。「あなたは他の人と違っている」というのは大チャンスです。他の人に持っていない物を持っている、ということですから、きちんと利益追求したいような会社では引っ張りだこです。そういう人が活躍できる場は必ずあります。

しかし、そういうような作業をしたり、意識を変えて行くことと「プライドを捨てろ」というキーワードは全く結びつきません。この先も何回も言う事になると思いますが、8050問題解決にマジックワードはありません。誰かが何か一言言ったら、世界が変わる、ということは無いんですね。

「プライドが高すぎて助けてと言えない」という言葉がマジックワードになってしまうと、プライドが高い人はSOSを本当に言えなくなってしまいます。蔑まれるのは誰しも嫌だからです。問題点をずらしてはいけないのです。「SOSを言う能力」がある人かどうか。「人に仕事を任せられる能力」がある人かどうか、「人に仕事をお願いする能力」があるかどうか、という、学校であまり教わらない「能力」の問題なのです。

「質問力」とか「傾聴力」あるいは「老人力」みたいなもので、なんでも「能力」と呼ばないといけないところもちょっとめんどくさい感じはありますけれど、日本社会全体が良く知らない他人とコミュニケーションを取る事で楽しく生きる、ということが「珍しい」ため、特別な社会問題が起き、変なワードを発明するしかないという状態ではあります。

本当はSOSを言わなくても、回りの人が気づいて救ってくれるような世の中だった筈なんですけれどね。早めのSOSが大事ですし、あと、「生きていてつまらない」「将来がなんとなーく不安」「友達がいないので辛い」なんていうのもSOSを出すべきタイミングです。プライドより怖いのは「社会常識と思われているもの」「他人の目」「思い込み」だと思います。他人からどう思われようが、いいじゃないですか。自分が幸せに生きる事が、世界中で最優先だということを考えてみてくださいね。