川島です。久しぶりのブログにこんなタイトルをつけないといけないことに忸怩たる思いはあります。

ニートとひきこもりが詐欺畑に

8050問題がクローズアップされるとともに、その前身ともいえる若年ニートやひきこもりに対して、昨今プレッシャーが高まってきました。

いわく「このままだと8050になってしまうよ」。まるで親世代が80歳で子供がひきこもりになったら、とても悪いことであるかのように言われるようになったのです。

そんなことはまったくありません。むしろ家族が互いを尊重しながら支えあって、全員に等しく訪れる「死」に至るまで「生活の質」を向上させることがなによりも重要です。

はびこる引き剥がし商法

ひきこもりのご家族が勘違いをしてしまいがちなのは、「家から無理やり連れ出す」「友達を作る」「居場所を作る」ことで問題が解決すると勘違いしていることです。

もうこの壮大な実験は30年以上行われていて、けっきょく成功していません。しかし、行政が先導してそうした取り組みをしていて、そこに補助金や助成金が生まれるために、さまざまな善意の仮面をかぶった人から悪徳業者までがこのメソッドに群がっています。

それを俗に「引き剥がし商法」と言います。他人の家に上がりこんでいって、引きこもっている人を無理やり逮捕(拉致)、連れまわし、そして施設に送り込むのです。

本来、成人であれば人権もありますし自由意志も認められるので、禁治産者であるのならばまだしも、あるいは精神科医が非常に不安定な状況を見て強制入院させるのならば別として、一般人が他人に何かを強制することは現代の先進国であってはならないことですよね。

しかしそれがまかりとおっている、ばかりかニーズが非常に高まっていますし、何しろ暴力性がないものについては行政や業界の圧力団体、医師たちが主導しているので、ラインを踏み越えることを、私どもにも期待されることがあります。

もちろんできない相談です。刑法犯になってしまいますから。暴力で問題が解決することはありえませんから。

目の前からいなくなってさえくれれば

日本には「見ぬもの清し」という言葉があります。原発汚染処理水のトリチウムであろうが、関東にばら撒かれて本当にたくさんの地域で除染活動が必要になったセシウムであろうが、原発が平常運転でも自然界に放出し続けているさまざまな核種の放射能であろうが、目に見えないし、気にしなければないことになってしまう。

さらに都合の悪いものは捨てたり、黒塗りしたり、埋めたり、海に流せばなかったことになります。実際にはなんらかの連鎖反応により、いつの日か、あるいは突然とてつもないしっぺ返しをくらうことになるのですけども。

家庭における「ひきこもり」も、とどのつまり「いなくなってくれたら、家族である私たちはどれだけ幸せか」という本音が見え隠れしてしまいます。

「自己中」が遺伝している

「ひきこもり」の当事者は、ふだん私どものような第三者と相対しているときには、非常におとなしい、穏やかにも見える、気弱なかたが非常に多いです。

しかし、紛れもなく自己中心的で社会性に欠落していることが多く、家では内弁慶で非常にわがままに振舞っていることが想像できます。

他人のためにすすんで汗をかく、ということができないんですね。そういう状況を知らないし、回りが勝手にやってくれますから。

最近は50歳くらいでも「若者」に見られますが、一般社会は45歳以上で社会性もないし特殊能力や技能もない人を育てている余裕はどこにもありません。それにそれができる人材が日本社会に存在していません。

しかも、悲しいことに、ひきこもりの親の少なくともどちらかは、やっぱり自己中心的で、他人に寄り添う、とか見守る、陰で支える、というようなことができない人なんですね。

子供に対して、過保護ないし過干渉、あるいは虐待。子供を自分のアクセサリーやペットのように扱い、自主性を無視する。

ひきこもりのロールモデルはひきこもりの親ということが少なくありません。しかしその親自身は、昔自分がどれだけ子供に対して自己中心的であったかの反省も記憶もほとんどありません。

今でも、たくさんの親がディズニーランドや外国旅行のために子供の学校を休ませたりしていますけれども、こういう自己中が通ってしまう家庭に育った子供がひきこもり化してしまうことに社会はなんの警鐘も鳴らしているようにみえません。

自分さえよければいい、というひきこもりの家族の犠牲になる必要はまったくありません。

どこの家族にも自己中心的ではない人が一人か二人はいて、その人たちは一番心をいためますし、相談に来る方もそうしたかたが一番多いのです。

解決できるとしたら、自己中心的な親自身が悔い改めて、自己中心的な子供に真っ向から向き合うことしかないのですけれども。

私は子供のために必死で働いてきた。私は正しい。なんで私が子供に謝らないといけないの? 頭おかしいんじゃないの? とまでいわれます。

年齢を重ねて、現実に自分の子供が社会不適合者になっているにもかかわらず、ひとつたりとも反省することなく、どこかのわけのわからない施設に預けて鍛えなおしてもらえば、まともな人間になるはずだ、というのは、本当にわがままでしかなく、とても絶望を感じてしまうところでもあります。