「他人と過去は変えられない」

これは認知療法の提唱者であるエリックバーン氏の「名言」です。精神病治療の、ことに精神薬を否定する人たちは、この呪文を唱え、日本社会のせいで病んでしまった「弱い人たち」「慎重な人たち」を、さらに地獄の苦しみへと放り込み、平然と笑うのです。

これは実は、虐待、以外の何者でもありません。もうすこし柔らかな言い方をすれば「マルトリートメント」ということになります。「他人と過去に苦しめられて途方にくれている人たち」にこんな厳しい言葉を投げかける。精神医学業界は狂っていませんか?

「他人」については、先日お話をしましたよね。「他人」を変えることは可能です。ただ、他人を変えるにも自分を変えるにも「正しい教育」が必要ですし、教育を受ける人の「努力」が必要です。

正しい教育を受けて努力をすれば、人は何歳であろうが、成長することができます。「変わる努力」をすることで人間的に成長し、どんな人でも国や、自分を取り巻く環境を少しずつ良くしていくことができます。

今、ほとんどの日本人に欠けている視点が、「学習」「努力」「教育」「成長」「自分が世の中を良くしていく」という「大人であれば当たり前のこと」です。

本当に悲しいことに、バブルガハハオヤジや昭和おじさん、に代表されるほとんどの人は、努力や成長がなくても、ものが自動的に飛ぶように売れていったり、他人の努力や確立されているブランドに「フリーライダー」を行い、さも自分のポテンシャルが高かったように錯覚しています。

そのため、現在でも、テレビや新聞、さらには、もうほとんどの人が読まなくなった月刊の文芸誌などに書いてある、論客と呼ばれる人たちの意見を読むことしかしません。

そして、たった数人の交通事故死や、自分程度に幼稚な国会議員の酒席での発言に対して集団リンチを加え、堀江メール事件の永田氏のように自殺に追い込むまで人格否定を行って、したり顔で「国会議員はバカばかりだ」と安全地帯からいうのです。

私は政治にはほとんど関心がありませんし、国会議員に期待もしていません(というよりほとんどの他人に期待していません)がこういう人が「世の中が悪くなった」「このままで日本は大丈夫なのか」と言っている事実に寒気を覚えます。

ダメに決まってるじゃないか、なんですよ。良かろうはずがないのです。年金生活者たちは、私たち現役世代の納付している社会保険料を奪って生活しているのに、「社会に助けていただいているので恩返しをしよう」「自分的の手で日本をよくしていこう」と、行動しなくてもいい、せめて発言するだけでもしてくれればいいのに、そんなことはまったく考えていない様子です。

ちょっと耳を傾けてあげるだけで、愚痴と苦言と悪口と不平不満のオンパレードです。たまにポジティブなことを言うと思うと、どこどこのサプリメントが健康にいいらしいよ、とか、えごま油を取ると健康になるよ、とか、脳みそが溶けているのか? と疑ってしまうほどです。

そんな、誰も、なんの努力もしないで、数百円のお金を払うだけで健康になったり、自分の生活が豊かになったり楽しくなったり、日本が中国より経済発展したり、高齢化問題が片づいたり、交通事故死がなくなったり、なんてことは起こるわけがないのです。

また、この世代の人たちは「自分が若い頃はこうではなかった」「今の若いやつらは努力と辛抱が足りん」「石の上にも三年」「臥薪嘗胆」などなど、といい始め、自分たちの若い頃がいかにすばらしい時代であったか、というファンタジーを語りだすのです。これではなるほど子供たちに見捨てられるのも無理はありません。時間の無駄ですから。

昔から交通事故死は、事故発生から24時間以内、ということで実態を表していない、という批判がありました。よほどひどい心肺停止の状態であっても蘇生術を施し、人工呼吸器につなぐことで、弱い脈を一週間程度打ち続けることはでき、遺族が了承して機械をはずすことでお亡くなりになる、それは警察発表の数には含まれないのです。

現在の日本の自動車は、クラッシャブルゾーンといいまして、ボンネット周りで、衝撃をうまく吸収しながら壊れるような仕組みになっていることから、よほどの不運な状況で衝突事故などが起きない限り、即死ということはなかなかありません。

それで、現在は一日あたり10人未満、年間で3000人程度しか死亡者数がいないことになっています。他方、ひきこもりです。現在100万人以上のひきこもりがいて、ニート、あるいは家事手伝いとカウントされている無業者数を含めると200万人とも言われています。

無業者ということは、収入がないわけで、その状態と言うのは「緩やかな自殺」と言うこともできます。しかし、日本では、自殺者数が3万人、と言っていた時代から、「遺書がなければ不審死または不慮の事故」「遺書があってもそう見えなかったら不審死または不慮の事故」となるのです。

そのため、現在では2万人ということになっていますが、誰もこの数字を信じていません。また、孤独死もたくさんありますが死後時間が経過していると死因を特定できにくいので、これも自然死扱いされる場合があります。

この問題については稿を改めますが、いずれにしても政府発表の自殺者数だけで交通事故の10倍近くいるのです。ですからニュースバリューとしては、高齢者の自動車事故、より自殺件数の多さとそれを防ぐための知恵、というのが重要なんですが、テレビとかではそういうことはほとんどやらないようです。

それはもちろん、「愉快ではない」からですね。特に高齢者にとって死の話題は愉快ではありません。そして、批判しても差し支えないだろうとテレビ局が考える、テレビ局に対する権力を持たない権力者や、テレビを見ないであろう層であるばかげたことをする若者、など「無難」な話題を針小棒大に騒ぎまくるのです。

本来であれば、「情けない世の中」「馬鹿な若者たち」「馬鹿な大人たち」を教育し、育て、作り上げてきたのはテレビを見ているであろう高齢者たちなのであって、ちょっと想像力があれば、彼らをバカにすることは天に唾することと同じであることがわかりそうなものですが、もうそれがわかんなくなっちゃっている。

65歳以上の高齢者が人口の3割ですよ。60歳以上であればさらに増えますし、50歳以上の人もわりとテレビを見ていたりしますから、おおむね25歳以下の、社会に影響力を持たない人たちを除けば、こうしたテレビを見ている人たちは日本の中でまだまだマジョリティなのです。

その大多数の人たちが、「こんな情けない世の中では先祖に恥ずかしい。自分たちの力で変えよう」「世の中を変えるために教育しよう」「世の中を変えるために努力して自分を変えよう」とならなければいけない。しかし、あくまで他人に責任をなすりつけようとします。

やれ「学校の教育が悪い」「政治が悪い」あげくのはては「アメリカが悪い」「日本が戦争に負けたのが悪い」。はい。こういう人たちにこそ、「過去は変えられない」という言葉をぶつけ、マイナスオーラを吹き飛ばす必要があります。しかし、今現在、精神的に参っている人に、こういう呪文をぶつけるのは間違っています。

「他人と過去は変えられない」というのは、エリック・バーンが認知療法という宗教を薦めるための呪文であり、日本人の場合にはあまり役にたちません。日本人の場合は、きちんと、現在、過去の自分自身と向き合い、自分がどのように見られていたのか、自分と家族や社会との人間関係はどのようなものであったのか、そして、「おかしい」のは誰だったのか、を見つめなおし、理解し、納得し、その上で決別する必要があります。

日本には三つ子の魂百までも、という言葉があります。子供のときの自分も、現在の自分も、両方とも「本当の自分」なんです。もちろん子供の頃のほうが、よりピュアだったのかもしれない。あるいは今よりももっと周りの顔色を伺いながら生きるしかない「イヤな餓鬼」「ませた子供」だったのかもしれない。

ほとんどの自己中心的ではない日本人は、社会の圧迫が激しかった(最近はちょっと放任しすぎ)ため、学校を変わるとき、恋愛をするとき、就職するとき、転職するとき、結婚するとき、子供が生まれるとき、徐々にバージョンアップして「正しい大人」「恥ずかしくない親」「立派な人」になっていかないと生きられなかったはずです。

そのため、自己啓発本を読んだり、セミナーに行ったり、有名人のサロンに入ったり、異業種交流会に行ったり、いろんなことをして武器をみにつけたり、習慣を取り入れたりしてきたはずなんです。

ところが、世の中には子供のまんま成長してしまった、「アダルトチルドレン」と蔑視されるべき人が、本当に日本の場合には大量にいるんですね。「こんなんでよく社会人やってこられたね」っていうような、おじいちゃん、おばあちゃんがとってもたくさんいます。

それだけバブル時代は、自分をバージョンアップしなくても、会社という社会の中で尊重されたし、ほめられたり、認められたり、尊敬されたり、いい人生を送ることができたんですね。でももう時代はすっかりかわってしまって、そして年号も二回変わりました。もう、昭和は残骸しか残っていないんですね。

ひきこもりの第一人者を標榜する人が「ひきこもりの居場所を作って、そこでひきこもり同士で話をしあったら社会復帰できるようになる」とかくだらない、絶対にありえない夢物語をいいますし、ひきこもりの親たちは「見守っていればいつか目覚めて働きだす」ことを期待していますが、そんなことはありえないんです。

なぜありえないか。そこに「努力」がないからです。そこに「危機意識」がないからです。そこに「死ぬかもしれない」という切迫感が見えないからです。どんなに人手不足であっても、努力をしたことがない、そしてこれからも努力をすることがない、しようと思わない、しないでもやっていけると思い込んでいる、そんな人は不必要なんです。

私たちは「過去は変えられる」と申し上げました。「過去も、現在も変えられる」それは確かなんです。しかし、それは、なんにも努力しないで、自分の過去が栄光に満たされる、という意味ではありません。

「過去を変える」ためには、とてもつらく不愉快な作業になるのだけれども、自分が忘れようとして、忘れてしまっている、自分だけしかしらない過去をよみがえらせ、その過去と向き合い、私どもカウンセラーに告解をしていただく。私どもは、その「忌まわしい過去」の予測がつく場合もあります。しかし私どもの口からは言いません。

あくまで、ご相談者さま、あるいは、ひきこもりの本人、親、関係者のみなさんが、自分自身のことですから、それを掘り起こして向き合い、見つめなおし、理解しなおす。その「不愉快な過去」があって、今の現在の状態があるわけなので、そこはとても大切なプロセスです。そして大変な努力が必要です。時間もかかります。

精神医療の臨床の現場では、こうした時間がかかる作業は行えません。でも、若い方の場合はそれほど時間がかかるわけでもないんですけれども、めんどくさい、という理由もあるのでしょうね。

認知療法を何ヶ月も受けて、施設をもうすぐ卒業、という人が、それでも仲良くなった人に「昔こんなひどいことがあったの」という話をしはじめるわけです。一度負ってしまった傷は癒えない、だから蒸し返しても仕方ない、ではないのです。徹底的にそこに向き合う。そしてなんでそんな不条理が起きてしまったのかを解き明かす。

そんな簡単なことすらできない人が、認知療法のような高度な感情コントロールをできるようになるはずがないんですよ。日本人の大人は「コトナ」といって本当に幼稚ですから、過去を変えないと現在も変えることができないんですね。

長くなってしまいました。現在や事実を変える話はまたの機会にしましょう。