8050問題、ひきこもり問題において、自殺というのは「最悪の結末」のひとつです。しかし、実際には自殺は、最悪の結末、とは呼べません。8050問題の最悪の結末というのは、社会に暗い影を落とし、日本社会全体が「死んで」しまいことです。

自殺は、今、日本にはどのくらいあるのでしょうか。ごまかされた統計しか発表されていないので、いっときの三万人から2万人に減った、という話や、若者だけで3万人いる、という話がありますが、実際にはそんな規模ではなく、国際標準指標だけでも年に11万人ほどいることになります。

実は日本においては明らかな自殺認定、というのが、ほとんど行われないのです。たとえば「死んでやる! と叫びながら衆人環視のなか、灯油を頭からかぶり焼身自殺をする」ということであれば、「誰が見ても自殺」ということになりますが、精神錯乱状態による事故にもされかねないところがあります。

ほとんどの自殺は、他人を巻き込むことはなく、一人静かに行うもので、人知れず死んでいくものですし、誰かに手助けを求めると、自殺幇助の罪でその人がつかまってしまいます。

一時期はやった、今でもおそらく、かなりの人が実行していると思われる、練炭や排気ガスによる中毒死も、かなり実施されていると思われますし、集団で行われている例も少なくない、と思いますが、自殺が自殺を呼ぶことになりかねない、ということで、報道の自主規制が行われているのは明らかです。

それというのは交通事故の24時間以内死亡者、すなわち即死事故死者数に比べて、年間自殺者、行方不明者、不審死者、事故死者、死因不明の孤独死者数の数は100倍以上ともいわれているのに、実際のニュースやワイドショーではほとんど取り上げられることがないからです。

そう、実際には自殺である可能性が濃厚である場合であっても、「不審死」「事故死」「自然死」に分類されるケースが多いのです。これは最近始まった風習ではなく、自殺者数が社会問題になっていた時期ですら、遺書もあり、死ぬべき理由もあるのに、その自殺の仕方から「事故の可能性を捨てきれない」と事故死扱いされたこともあります。

「自殺」というのは残された遺族の精神的負担は非常に大きく、ことにご近所のかたは「理由さがし」「犯人さがし」をしたがるもので、狭い地域の中での軋轢を防ぐための「思いやり」とも考えられます。

また、多くの生命保険が、数年後以降の自殺については満額の支払いを行うのに対し、最初の数年は免責されることから、事故死扱いとなると生命保険が出る、という特典もあります。

多くの保険会社では事故調査班を持っており、このあたりはできるだけ保険金を支払いたくない、と厳しい調査を行うのが一般的ですが、その一方で「支払う必要のない保険料」まで支払う例なども多くあり、いずれにせよあまり信用できません。

確かに「遺書」というのは「遺言」同様、直ちに死ぬ、とわかっていなくても準備しておく人もおりますし、遺書を書いたからすぐ自殺をする、というわけでもありません。ただ、遺書があるのに、病死、自然死、とし、自殺にカウントしないのはどうなのか? とも思います。

口下手であったり、議論が得意ではなかったり、神経が参っていたりする人は、自ら命を断つ、ということで何かを訴えたかったのかもしれません。生き残った家族にメッセージがあったのかもしれません。

三島由紀夫の割腹自殺のように、あれだけ弁がたち、作家でもある人間が、その行動でしか決意表明できなかった、あるいは大衆を扇動するにはそれが必要だと考えるにいたった、そのくらい人間の死は重く、メッセージ性が強いものなのです。

人が命を断つ、ということは、誰かに対する愛であったり憎しみであったりするものなのです。自らのために死ぬ、というのは限りない自己矛盾であり、それこそ精神的混乱を起こしてでもいない限りはそういうことにならないのです。

「生きている価値がないから死ぬ」という、生きている価値を決めているのは本来は他人なので、自分自身の価値は自分自身では決められないものなのです。そして人間の「できること」や「価値」は人それぞれなので、偏差値30だったら死ぬしかない、などということはないのです。

私は「勇気をもらう」「感動を与える」という言葉が大嫌いなのですが、それは、そういうことができない人は生きる価値がないのか? という疑問でもありますし、そういうスポーツ選手なりなんなり、は、そういう抽象的な価値のためにがんばっているわけではないだろう、という怒りもあります。

そもそもが勇気なぞというものは、自らが振り絞るものなのであって、他人とやりとりするようなものではない、というのも、何か居心地を悪くする原因でもあります。おかしな貨幣を作らないで欲しいな、とも思います。

「自殺に追い込まれる人の数」が、たまたま運悪く交通事故で命を落としてしまう人の数の少なく見積もっても30倍ぐらいあるのだ、というこの社会のどこが正常なんでしょうか?

しかも交通事故の加害者は、人殺しをしようと思って運転しているわけではない、たまたま、いくつもの不運が重なって、事故を起こして人を殺害してしまった、いわばその人自身も被害者である側面があります。

にも関わらず、この国のマスコミや、一般人というメディアはこぞってこの人を極悪人に仕立て上げ、それこそ自殺に追い込むくらいまでに責め続けます。

この国は「まとも」なのですか? これで先進国と呼べますか? これで民度が高い、と言えますか。これが世界に誇るクールジャパンなのですか? 幼稚とは思わないのですか? それではあなたは、朝食のパンを焦がして真っ黒こげにしたことを、近所の人たちからバカ呼ばわりされてたくさんのツイートをされたらどのように思いますか?

この国の人たちの底流には、「他人を自殺に追い込むことは許される」「みんなが賛成すれば、他人を殺すことも当たり前だ」という意識が脈々と流れています。だから太平洋戦争で、特攻兵として必ず死ぬことが明らかな人を万歳を唱えて送り出したりしたのです。

その時代から、この国のモラル意識は一ミリも進化していません。メディアに限らず、コミュニティや井戸端会議は、常に誰かスケープゴートを見つけ出し、自分を安全地帯においてたたきまくる。そのようにして何人もの人を自殺に追い込んできました。

「自殺」問題は「ひきこもり」問題と密接に絡んでいます。「自殺」を止める緊急避難として、意欲を失わせる薬を処方したり、施設に軟禁したりというようなことが行われますが、その状態を抜けた後に「ひきこもり」になってしまうことはよくあるからです。

「ひきこもり」そのものが「ゆるやかな自殺」の一形態なのです。「自殺」が緊急度が高いのと同じく、「ひきこもり」の緊急度も高いのです。

しかし、多くの「ひきこもり」たちにどう接してよいのかわからず、腫れ物にさわるように接触するか、あるいはほとんど接触しないまま、時間だけがたっていって、「8050問題」になってしまった。非常に残念な状態となってしまいました。