平成という時代が終わりました。あらゆるメディアが結局無視を決め込みましたが、中卒でも大成功ができた昭和という時代と違い、平成は学歴のいかんを問わず、当初は新しい働き方、とそそのかされたフリーターや派遣、という職務形態が崩壊し、それまでの終身雇用も崩壊し、ニートやパラサイトが大量に生まれて各家庭の幸福度が一気に落ちた時代でありました。

大学はほとんどの人が行くようになりましたが、平成後期にはバブルが完全に崩壊し、受験戦争はあったけれども良い就職がない時代になりました。大学卒業で正社員採用されるのは全体の6割に過ぎず残りは非正規雇用かニートになりました。

まだ女性ははたかなくともいい、という社会慣習が残っていたためにそのことは社会の重荷となって現れてはきませんでしたが、職場内での男女差別は歴然と残り、女性は子供を生むか安月給でなんとか家族を支えるかという厳しい二択の時代が続きました。

派遣の3年間での正社員登用制度ができたかと思えば、雇い止め、派遣切りの問題がおき、さらに悪辣なことに平成20年代には「なんちゃって正社員」という制度が登場しました。「エリア社員」とか「事業所採用社員」など呼称はさまざまですが、アルバイトを「準社員」と言っていたのとまた少し違い、社員なんだけれども終身雇用でもなければ、賃金カーブが40歳くらいでストップする、あるいは正社員の主任クラスの職位にしかなれない、などの制約がつき正社員への登用がない、キャリアパスの存在しない「正社員」が登場したのです。

高度成長期からの集団就職に端を発した、若者が地方に戻れない状況は非常に長く続き、いまだに首都圏の人口はあがっていますが、地方の疲弊は激しいです。そして地方経済は衰退の一途です。かろうじて若者にある収入も少なく、年金暮らしや年金すらもらえない高齢者がほとんど、という状況で「遊び金」がほとんどないからです。「歯を食いしばって遊ぶ」状況となっています。

都会も状況はよくありません。平成の30年を通じて、多くの職業では生産性が一千倍以上にあがりましたが給料が上がりませんでした。その一方で30年前とほとんど変わらない仕事をしている人たちが高級を食んでいる実態があります。国会議員などが最たる例でしょう。

国は国の債務返済努力を完全に放棄してしまいました。ほぼ実効性のない教育の無償化をしようというのです。それ以前に年金を手厚くするとか、高齢者雇用を一般化するとか、生活保護を拡充するとか、障碍者を手助けするとか、インフラの老朽化の対策をおこなうとか、優先順位の高い項目はあるのに、それらを削って選挙対策としてくだらない政策を次々打ち出しています。

日本がどのように滅んでいくべきかを議論検討しなくてはいけないときに、ふた世代も遅れた、昭和のそれも、戦争によって国が子供たちを殺してくれた時代のように多産社会を作ろうとしている。正気の沙汰ではありません。時代錯誤もはなはだしい。

子供を一人前に育てるのに、10年程度前は1000万円といわれました。現在は2000万円です。大学の4年間の授業料や入試、教材費だけで500万円かかります。多くの人たちは都内や近郊にアパートを借りますが、親が仕送りをしないといけないお金がこれまた数百万円かかります。

良い大学に入れようとするなら、中高一貫教育の有名私立、もしくは大学の付属校に入れようとしますが、それらも年間100万円ほど費用がかかります。以前は揶揄されていた「お受験」は通過儀礼として定着してしまいました。

今回の政府の消費税対策はこの2000万円の一部を免除するにすぎません。無償教育が受けられるから、とたくさん子供を作れば、よほどの収入がなければ一家離散につながりかねません。特に女性が多産された家の経済的負担はとても厳しいものがあります。

奨学金という名前の学資ローンを子供に背負わせてしまうと、子供の人生が大学を出た瞬間につんでしまうことにもなります。返すことのできない数百万円のローンを抱えて、恋愛や結婚どころではありません。

昭和バブル時代には大卒の生涯年収は三億円といわれていました。実際に昭和末期に退職した人たちは学歴にはあまり関係なく、平均二人の子供を育て、一戸建てを持ち、退職時には6000万円の貯金+退職金と3000万円の不動産資産があり、月額30万円の年金生活、というのがアベレージだったとも聞きます。少なくともそういうシミュレーションにクレームはありませんでした。

ですから80歳まで生きた場合の平均生涯獲得収入は3.7億円を突破することになりました。しかし、現在は大卒でも2億円がせいぜいです。年金も若い世代にいたっては出るかどうかもわからない不安を抱かせる状況です。現状でも国民年金に介護保険料や健康保険料、税金などが覆いかぶさり本当に雀の涙です。

そう、昔は社会保険料も低くサラリーマン定率減税などというものもあり、健康保険料も半額ぐらいだったのです。そして医療費も安く抑えられていました。同じ給料であっても手残りははるかに多かったのです。

20年くらい前まではハイクラス求人というと年収1200万円ぐらいでした。それが1000万円に下がり800万円に下がり、いまや、700万円、600万円です。ハイクラスでこれですから、多くの求人は月給25万円しかも諸手当込みであり、少しスキルを必要とする厳しそうな仕事でも年収400万円です。これをアベレージで考えたとしても、38年で1.5億円というのが生涯年収です。

経団連が最近発表した平均退職金額というのが2300万円ぐらいですが、ほんとかよ、というのが実感ですね。

実際はわずか252社の、モデル賃金から算出したり、昭和の人たちの退職金であり、これからこの金額がもらえるというわけでは絶対にありません。多くの会社での退職金は優良企業でも1000万円になんとか届くか、というレベルであり、ほとんどの会社では300万円も出たらラッキーという部類です。

それにもかかわらず、退職金での一括返済をもくろんで住宅ローンを組む人たちがいまだに多いわけです。実際には地方公務員などは莫大な金額を支給されるわけですし、年金もそこそこつくので、そこまで粘れればいいでしょうが、かなり無謀な投資です。

こうした現役世代の窮状を親世代が知らないわけではありません。そのため子供たちにお金を残さなければいけない、という機運が高まっている一方で、現在の推定値でおよそ7割の家庭が子供のために一円でも多く貯金を残そうとしています。

老後の生活を謳歌して、毎月海外旅行に出かけて、という夫婦がいることは確かなのですが、ごく少数です。そもそも論として、老後が平成の間になくなってしまったのです。要するに十分な年金が出なくなって働かざるをえなくなってしまった。

老後、以前に生活を楽しむ、ということを日本人はどんどんやめていきました。キャンプ場なんかがらがらです。スキー場もガラガラです。ゴルフ場もガラガラです。スポーツカーで颯爽と走っている人も非常に少なくなりました。みんな商用車を黒く塗りたくったような大きな車に乗っています。

趣味にお金を使う、ということが白い目で見られるようになってきました。もともとバブル時代は「衝動買いして使わない」というのが許されていた時代だったのです。今はフリマアプリとかありますけど、もうそれも飽和状態に近づいているように感じます。

CDを買う人は世界中で日本人だけですがそれもほとんど買いません。なぜならCDプレーヤーを持っていないからです。レンタルCDをリッピングしてメモリーオーディオにダウンロードして、というのがオワコンです。iPodが消えてしまいましたから。

DVDを売りたいプロミュージシャンはたくさんいますが、大きなレーベルは発売してくれません。クラウドファンディング方式やオンデマンド方式で若干出すこともありますが、流通網がほとんどありません。

出版も大不況で、本屋がばたばたと消え去り、大手取次ぎも消滅しようとしています。以前は一通りの本屋さんに並べるだけで5000部は必要といわれ、初版で7000部という数字は大きなものではありませんでした。しかし現在の初版は2000部とも3000部とも言われています。

印税も下がってきていて、以前は専門書を除いては一律10%だったものが、最近は5%はおろか、売れた実売数の数パーセント、というような契約もあります。半年間取材を重ねて、ようやく出した本の筆者としての売り上げが10万円しかなく、生活費はおろか取材のための交通費も出ない、というのが現状です。

実際、こうなると同人誌のほうがいいよね、ということで、自主出版や自主CDを通販ルートで、素材を持ち込むと販売まで全部代行してくれて、しかも印税の3割とか5割をもらえるようなサービスをする会社も出てきました。

WEB2.0とか言っていたころは、もうアメリカではCDショップがばたばたつぶれていて、マドンナとかU2のような知られたアーティストですらCDや音質の低いダウンロード用音源を無料で配布するようになった、コンサートに呼び込んでそれが収益の柱だ、ということになりました。

同様のことは日本では本で行われています。「なんちゃら投資」「真実のほにゃらら」というような本を無料で配布しますから、共感したら有料のセミナーやメルマガや本を買ってください、あるいはYoutubeの登録をしてください、というのがあります。

残念ながらほとんどは宗教本、オカルト本、精神世界本となんらかわりありません。いわしの頭も信心から、信じるものは救われる、といった感じです。実害が出ないことを祈るしかありません。本来他人がどうなろうとかまわないのですが、結局は彼らの失敗は私たちの税金で補填されるおかしな社会構造がまかりとおっているため、私たちは常に他人に配慮しないといけないのです。

さて、この稿もとりとめがなくなってきましたが、何をいいたかったか、といえば、要するに平成という時代は無職の人と、貧乏人を大量に作り出した時代だったですよね、というのがまず第一点なわけです。

政府統計では、現在は高齢者がたくさん雇用されているために労働人数は非常に多くなっていますが、豊かな老後がどこにもなく子供のために働かなければいけない高齢者が非常に増えているという切迫した状況があるのです。

そういう社会構造を作ったのは、いや、そういう社会構造にしないように努力をしなかったのは平成の官僚と政治家の怠慢です。そしてそれはいまさら遅いのです。時計の針は巻き戻せないのですから。

高齢のタクシー運転手の方に話を伺うと、子供が働かないから、あるいは高齢出産したために70過ぎても働かないといけない、という話をよく耳にします。そういうのが日本中です。地方の高齢者は自分のために働かないといけない状況です。

若者だった中高年の61万人、実際には数100万人になんなんとする人たちは、就職がなく非正規でなんとか食いつないできたものの、実際には若い人たちの半分の労働生産性もなく、なんとか生きている、という状態です。そのうちのごく一部が引きこもり認定されたに過ぎません。

8050問題で苦しんでいる人たちは、あきらめてしまっています。SOSを出すことをしません。生きることはあきらめていませんが、幸せな生活、余裕のある、うるおいのある生活というのをあきらめてしまっています。

8050問題一件を解決に導く努力と同じ努力で、自分の道に迷っている20~40代の人たちに希望の道を与えることができるし、しかも楽しい。上皇陛下や天皇陛下のように、自分たちが世の中の見本にならなければいけないという自負が8050問題の人たちにはないのですよ。そういう意識がない。しかもなくてよいと思っている。開き直っている。そうして努力もしない。精神年齢が非常に幼い。

昭和の人たちの精神年齢の幼さには愕然とさせられますが、本当に厳しい。そういう人たちが集まって討議を繰り返しても本当に時間の無駄でしかないんだと思いますよ。厳しい言い方をすれば、親としての資質に欠ける人が親になってしまった。そのため子離れがうまくいかず、結果として8050問題が泥沼化した。簡単にいってしまえばそういうことです。