だいたい四半世紀前ぐらいでしょうか。この変な国では「ひきこもり支援」とかNPOの「引きこもり支援団体」さらには「引きこもりの家族支援団体」というものが全国でポコポコと湧き上がり、それが全国ネットワークとなって圧力団体となり国会議員を動かし、あるいは行政を動かし、今年春の「全国の高齢引きこもりは61万人」という、思考停止しか引き起こさない数字を引き出すところまできてしまいました。

この数字にせよ、さまざまな論評にせよ、そもそもの分析や、統計理論を無視した集計方法にせよ、あまりにも手前勝手であったり、責任転嫁であったり、ゼロはいくつ足してもゼロにしかならない、という無力感を強く感じることしかできない、というのが正直な感想ではないでしょうか。

私どもは毎回申し上げているのですが、実際の「ニート」の数は、とてつもない数です。何しろ65歳以上の高齢者の99%は年金支給または生活保護支給を受けている「国家ニート」なのですから。15歳以下の子供たちもニートかもしれないし、最近は40歳ぐらいからリストラが始まり、再就職できない人はやはりニートにならざるを得ない状況があります。もう、どこから救ってよいかわからなない、救いようのない状況ですし、救うとしても救いやすい人から救うというトリアージをつけていかなければいけない状況なのです。

いや、ニートと引きこもりは違うんだ、という議論も、かなりあいまいなものになってきてしまっていて、昔は本当に部屋に閉じこもっていて、親には暴力をふるい、勝手に家の金を盗み出して食べ物を買うとか、親が食事のしたくだけしてそっと部屋の前においてくる、という「典型的引きこもり像」というのがありました。

しかし、現在はそういう引きこもりというのはニート全体の中でも天然記念物的に少なく、ほとんどの「引きこもり」は、車を乗り回してあちらこちらにいって自分の好きなものだけ買ってきたり、ヲタクイベントのようなものには参加できたり、海外旅行まで行ってしまったり、だったりします。

今回の国の調査では「相当程度、家族以外の人たちとコミュニケーションしていないと思われる人」が基準になっていますが、24時間監視状態にあるわけでもなく、この基準はあいまいなだけではなく意味がありません。

というのは、引きこもりのかたは(もちろん親や肉親の金で生活をし、命をつないでいるのに)親や家族を恨んでいたり敵対視していることがほとんどだからです。ほぼ例外なく、と、言ってもいいと思います。

カウンセリングを続けていく過程で、家族への恨み節がつい口をついて出てくることがあります。そこで私は変わってしまったのかもしれない、という方もいらっしゃいます。それは本当にとても昔の、そして親からすれば記憶にまったく残っていないほんの小さな出来事であったとしても、マルトリートメントを受けた「被害者」からするならば、それは自分の一部を奪われたような大きな痛みであったりすることもよくあるのです。

しかも、それは引きこもりの方に限った話ではありません。引きこもりの親ごさんは、その何十倍、いや、何百倍の苦しみがあった、と皆さんおっしゃいます。明らかな精神障害のお子様をお持ちの親御さんがおおらかに見守りながら育てていらっしゃるのと違って、五体満足で普通のお子さんであったはずの子供に対する、ごく激しいものになると「この子さえ産まれてこなければ」というようなお話を伺うことも少なくありません。そしてそれも無理もないことだと思います。

ちなみに、こうした思い、というのは、「引きこもり」という特殊な環境に陥ったご家庭だけの話ではありません。早くに親と死に別れてしまった場合は別として、ほとんどの、いっけん幸福そうに見えるどのような家族でも家庭でも、「昔のことだし」というところもあって、通常の関係性の時にはそうしたものが表出することはめったにありません。

しかし、端的な例では遺産相続のような場面になると、「小学校のころにおねえちゃんだけえこひいきされた」「お兄ちゃんのお古ばかりきせられて、服を買ってもらえなかった」「お兄ちゃんだけ私立にいかせてもらえた」などという、他人にもわかるような話から、本当に微に入り細に入り、髪をつかみあっての大喧嘩になる、などということは普通なんですよ。

親子や兄弟は仲良くしましょう、というのは法律で定められているんですね。法律でわざわざ定めないといけないくらい、ふつうは親子も兄弟も、血がつながっていようがいまいが、仲がよくないし、助け合ったりもしないものなんです。それで家庭裁判所はいつでも混雑しているわけです。

ただ心の奥底では憎みあっている人たちがひとつ屋根の下で生活する、というのは、それはただごとではありません。その状態をキープしているだけでお互いにとっては大変なストレスです。ただ親は子供を庇護しないといけない、という法律上の定めがあるので、お金の面倒をみたり世話を焼いたりします。

現代においては世話を焼きすぎる、過保護過干渉が常態化して、問題として取り上げられることも少なくなってしまいましたが、よその国から見ると明らかに異常な空気が日本には蔓延しています。

引きこもりの親ごさんは、子供の金銭的な面倒を見ているという、とてつもなく耐え難い状況から、同居しているお子さんに対して、まったく悪気なく、あるいは最初は悪気があったとしても、相手が反応しないのでそれがエスカレートしてマルトリートメントを行うようになります。子供に対して小学生のいじめのようなことをする親たちもいます。

言い方は不適切ですが、子供の世話をすることと、マルトリートメントを行ってストレス解消をすることがセットになって、親子依存関係を作り上げ、そこから抜け出せなくなってしまっているケースもあります。マルトリートメントは言葉の暴力ということが多いです。

引きこもりの子供たち(といっても実際には中高年なんですよ!)は、自分を守るために、家庭においては自我を喪失した状態におくか、引きこもり状況を作ったり、あるいは親に対してマルトリートメントを行う場合もあります(この場合は力による暴力が中心です)。子供の暴力から逃げるためにお金を出す親御さんというケースもあります。

そういう「家庭では引きこもり」のお子さんであっても、一歩外に出れば、友人たちとお酒を飲みにいったり、ということもないわけではなかったりします。今はSNSとかLINEもありますから、昔のお友達と再会して、ということもあるでしょうし、いっしょに出かけたり、ということもあるかもしれません。ただそういう姿を家族に見せることはありません。メリットがないからです。

「引きこもり支援」は、「閉じこもり」を家の外に引っ張り出すことには成功しました。集まってゲームをしたり、スポーツをしたり、というような活動をするような施設もあります。しかし、そうした娯楽を楽しむことができる、という状況と、就労する、という状態とには非常に高い壁があります。

その壁を乗り越えることは非常に困難で勇気がいることですし、何よりも自分の意思でその先の目標を目指さないと、ほとんどの人にとって就労というのは単なるお金を稼ぐ手段に過ぎないのですが、どうも引きこもり家族の方の話を聞いていると、就労自体が目的化されていたり、「親を安心させるために働いて」というような誘導自体もマルトリートメントではないかと感じます。

結果として、就労は長続きせず、再度引きこもりになってしまうことも多く、就労への壁はさらに高くなってしまうこともあります。ただ、引きこもりの解決は必ずしも親御さんたちがイメージしている就労というわけでもないのですね。引きこもり状態をいたずらに長期化させる「引きこもり支援」も問題ですが、「就労」を「引きこもり解決」のゴールにおく「引きこもり脱出支援」も問題です。

引きこもりは、新しい人間関係を自分を軸として生み出していくことができないし、映画を見たり芝居を見たり、ということはできたとしても、たとえば自分がイベント開催のために何らかの役割を果たす、ということができない状態です。

自分の力を信じて、自分で自分の未来を切り開いていく、それは、できる人からみれば本当にゆっくりとした動きかもしれないけれど、少しずつであっても、あるいは波があっても長期的に見れば進化できている、という状況が作れるようになることが一般論としては大切だと考えられます。

はじめに申し上げましたとおり、今はこの国は、「ふつうの人はニート」です。一番多い職業が、無職、なんですね。親御さんからすれば「昔、歯を食いしばって働いて貯めた年金で第二の人生を楽しく暮らしたいんだ」とおっしゃる気持ちはわかります。

しかし私どもですら、一生懸命働いたけれど年金は微々たるものなのです。まして今の若者たちは、どんなにこれから歯を食いしばって働いても、今の後期高齢者がもらっている半分ぐらいの年金ももらえるかどうかわからない、という状態なのですね。

その上悲しいことには、今の高齢者のかたが積み立てたお金はいつの間にか消えてしまっていて、現在の年金はほぼ賦課方式、つまり、現役世代から集めたお金に、若干残っている積立たお金を載せて再分配している状況なのです。その装置を取り払ってしまうと、老人が若者のニート状態ともいえます。

まずはニートが幸せにくらせるようにすること、それから、引きこもりの支援や引きこもりの親の支援ではなく、引きこもりからの脱出支援を社会的コストをできるだけかけない形で行えるようになることが、私どもの目標でもあります。