みなさんは浦島太郎、という「むかしばなし」を御存知ですか? 馬鹿にするなよ、ジョーシキでしょ? という世代は残念ですがもうけっこうおじさん、おばさん世代で、何しろ現代の赤ちゃんは、三歳前後からスマホを触りだしますから「むかしばなし」に触れる間もなく「クレヨンしんちゃん」だったり「ポケモン」だった世代があるのと同じことで、浦島太郎に接触するチャンスもなく、大人になってしまった人もたくさんいるんですね。

「むかしばなし」の金字塔は桃太郎でしょうが、桃太郎ですら、桃が「どんぶらこ」と流れた世代のほとんどは昭和バブル体験世代なんです。いわゆる団塊ジュニア世代が赤ちゃんだった時代に、日本の出版ブームはピークに向かって上り坂だったこともあり、「絵本作家」という珍しい仕事が生まれました。この絵本作家たちは絵を作るだけでなく、昔からある物語もアレンジしてしまったため、流れる音色や、結末もバラバラな何十冊という桃太郎が「発明」されてしまいました。

ももたろう、に比べれば幾分マイナーな「浦島太郎」ですら、さまざまなバージョンが作られました。それでも、さまざまなバージョンを作ってまでも、なんとかして浦島太郎のエッセンス(ってなんだかわからないけど)を届けようとしていたプログレッシブむかしばなしはバブル崩壊以降までずいぶん作られたのです。「そんなはずはない」と思うのでしたら、図書館や本屋さんで、最近のむかしばなしの絵本を一度見てみることをおススメします。今は出版不況やデジタル化もあって、絵本も絶滅危惧種であり、古典的なむかしばなしより「ぐりとぐら」やディズニーのほうがメジャーだったりもします。すこしさびしいですね。

当時の「プログレッシブ日本むかしばなし」の浦島太郎バージョンでは、「子亀パラドックスの謎」を合理的に解決しようと頑張っていました。だいたいがして、むかしばなし、どころか現代の小説でも映画でも矛盾だらけですし、むかしばなし、はどこまでいってもSFなのに変に真面目な「絵本作家」さんがいろんな解をしめしています。

因みに「子亀パラドックス」というのは、昔有名だった、浦島太郎の歌に起因するものです。「むかし、むかし、うらしまは、助けたカメに連れられて、竜宮城に来てみれば」という歌詞がそれです。桃太郎も浦島太郎も、ほかの昔話にくらべダントツ人気だったのはこうしたCMソングがあったからでしょうが、「助けた亀に乗っかって行ったのっておかしくね?」という突っ込みは子供の頃は考えもしませんでした。しかし、それを子供に突っ込まれて合理的に説明できなかったら嫌だから、先に逃げを打っておく、という大人はもっといやらしい感じがします。そういう大人に育てられたら、誰だって引きこもりになってしまうんじゃないか、とすら思います。

「逃げ」の一つはこうです。「いやー、どうもどうも、太郎さん、漁の最中お忙しいのに恐れ入ります、先日はウチの子供が大変お世話になったそうで」。つまり、小さな子供たちにいじめられていたのは赤ん坊のカメで、親が子供の恩返しにきた、という説明です。これもなんか、変に世慣れた不動産屋ぽくて嫌な感じがするんですけど。

浦島太郎を道で浜で呼び止めるパターンもありました。見ている間に、グググググと大きくなって、「どうぞ背中にお乗りください!」ウルトラマンじゃあるまいし。(ウルトラマンが怪物と等身大になって戦うのが全く理解できませんよね。100倍ぐらいになって踏み潰してしまえばいいのに)

そのカメが竜宮城についたとたん乙姫さまに化ける、というバージョンもありました。乙姫さまが亀のコスプレをしていた、そして、ひ弱であるがゆえに子供たちにいじめられていた、という物語です。それを読んだ時には愕然としました。整合性を取ろうとして矛盾点が山のようにありすぎる・・・。

ただ、どの物語も最大の謎だけはあまりいじられていませんでした。乙姫様はなぜ、開けると不老長寿でなくなる玉手箱を「開けてはいけません」と言って浦島太郎に渡した、というただ一点のみが変えられていません。

それ以外はめちゃくちゃなアレンジが施されているのに。例えば、浦島太郎は子供たちにお小遣いをあげて亀を買い取って逃がしてあげたのに、「お金でなんでも買えるというのは教育に悪い」ということで「子供たちを説得して」というバカげた話もありました。浦島太郎は漁師で、魚を売って暮らしているんですけど・・・。

お爺さんになったあと、鶴になり、鶴になった浦島が、罠にかかって怪我したところ助けてくれた人のために機を織って着物をこしらえたというアレンジもあります(平成初期の浪曲に、ですが)。

うらしまたろう、の物語を読んだことがある人は、「玉手箱を開けなければよかったのに」が刷り込まれています。「玉手箱は開けてはいけない」「玉手箱さえ開けなければ、浦島太郎にはたくさんチャンスがあったはずだ」そういう印象でしょうか。みなさんは「玉手箱」についてどうお考えでしょうか?

引きこもりの子供を持つ親にとって、引きこもりの「自分の子供」は、引きこもっているとはいえ、世の中に迷惑をかけているわけではないし自分の庇護下にある間は宝物のように考えてしまっているふしがあります。このコラムとしては、ちょっと厳しいことを言います。

玉手箱を開けることなく、子供を自分の扶養家族にして世間の風に触れさせず、あわよくば自分と同じテレビ番組などを見せて家族ごっこをしている間は、自分も年をとらなくていいけれども、もし子供が引きこもりをやめてしまったらどうなるか? その時は子供も玉手箱を開けてしまうことになり、かわいらしい少女だったり少年だったものが、ただのおばはん、おっさんになってしまう。そして、子供から邪険にされていても母や父だった自分たちは、孫の自慢もできないおばあさんやおじいさんになってしまう。「玉手箱さえ開けなければ」。

8050問題、高齢ニートの問題というのは、日本社会のひずみをすべて受け止めているような側面があり、3重4重の苦しみがあります。ただ、日本社会のなりたちから考えると必然ともいえるところがあります。 「昭和のバブル景気があったから8050問題が存在する」といっても過言ではありません。

ただ、正直な話、50代で知識も経験も実績も輝かしいものがあるエンジニアや大会社の社長経験者のような方であっても「人手不足ってどの国の話?」くらいに仕事がありません。最近のニュースでも、ドラマのようにかっこいいことを言っていたある大きな会社の社長さんは、一連の不祥事の責任の一端は私にもあるので私も腹を切る、くらいのことを言っていたのに、いつの間にか目の上のたんこぶを切り落としてしまって居心地がよくなったのかその地位に恋々としています。

マーケティングの世界では、いまだに日本地図の中に江戸時代の藩の歴史があります。ムラ社会というのか、さきの経営者ではないですが「同じ匂いがする奴だけ」という意識は強く、オープンマインドな経営者、あるいは人事担当者は本当に少数です。理想と現実が違うのではなく、現実とテレビや小説の中にあるような現実が違うのです。

「うちの中のこと(よそのうちのこと)はほっておいてください!」。8050問題に携わっていると、そういわれることすらあります。この場合は、親が子供を玉手箱の中に閉じ込めてしまっているのです。家の恥を見せたくない、という意識もあるのでしょうか。しかし、こういう自己中心的なかたがいる家庭で育つと、けっきょく子供たちも「自己中心的でOKでしょ」という教育しか答えがないので、周囲と上手く付き合っていく、ということができなくなるわけですから行く末は大変に案じられます。

ちなみに私どもは、できる限り近親者からのヒアリングを行うようにしていますが、それは見落とされている問題がないかどうかの検証などクライエント様の課題発見をするためであり、家族全員の合意が得られなければ引きこもり救出を行わないというわけではありません。多くの場合は、外の社会と接している血縁者で責任感が強い人、が、救出の主役になります。

逆に、傾向的には直系尊属である親御様を軸とした同居家族のご協力は得られにくいのが当然、と考えています。世の中の常識から多少外れたところで、その一家の中では違う常識が回っている、それぞれのご家庭がそれぞれの一個の社会ともいえますから。その社会を牛耳っている人は、その社会の形を私どものような「よその人」に荒らされたくないのでしょう(外の世界の人ですので実際には便利屋さん的に重宝していただけています)。

玉手箱にも有効期限と言うものがあって、5年くらいたつと開かなくなってしまうのです。いつでも開けられるだろうと思うと開けないでおきますが、途方にくれるとわらにもすがる思いで開けてしまう。人間なんてその程度のものです。

アイスクリームには賞味期限がありません。ところが、使用期限がない、と言われていたトラベラーズチェックは、今や紙くずになろうとしていて、わずか10年前には発行した人に2パーセントのクーポンプレゼント! とやっていたのに、今では銀行では完全に両替できなくなってきました。考えてみれば、仮想通貨とかスマートホンの画面にバーコード出したり、スマートフォンでバーコードを撮影するだけでお金が支払われるなんて20年前には全く考えられなかったことを当たり前のようにやっているわけですから、紙に手書きでサインして、それがお札の代わりに使える、っていうのが時代遅れだというのはそうでしょうが・・・。