およそ企業コンサルティングなどをしていると、そのファーストステップとして、末端社員や非正規雇用のスタッフまで当事者意識を持ってもらうために対話会というのを実施する。ある程度立場が違ってもいいが、同じ職場を共有する人、あるいは同じような仕事をしている全く違うセクションの人と忌憚のない個々の「思い」を打ち明け合ってもらうのだ。

この対話会にはルールがあって、立場や年齢に関わらず相手の意見を尊重する。他人の話の腰を折らない。みんなで話し手に集中し頷いたりサインを送る。他人の話を否定しない。建設的な意見を出す。などである。

そうすると非常に不思議な化学反応が起きる。だいたい皆が思っていること、感じていること、コンプレックスに思っていることがけして個人の問題ではなく、皆がそう感じていることであり、よりよい解決策をみんなで考えていけるのではないか、と思えるようになる。気分は話し合いをする前より軽くなるのだ。

こういう対話会は、さまざまな問題を抱えているものたち同士で話をすると、たとえそれが経営に関することであったとしても同じような結果を生む。議論が紛糾するということはない。多くの人たちはポジショントークをしていて、本心からではなく、相手の意見を潰すことで自分に利益誘導しようとするのが日本社会なので、個人に根ざして話をすると方向性は一致しやすい。

それが特に境遇や置かれた立場、さらには年齢、性別が一緒ならより共通点も多いが、そうしたものが全く違っていても不思議と最大公約数は同じように感じられるのだ。従ってこうした対話会はたいてい大盛況に終わることも多いし、もっと回を重ねたい、楽しい、と思うことも多い。

しかしコンサルタントの立場からすると、これらはあくまでガス抜きであり、ほとんど意味をなさない。というのは現実の社会はお金で回っていて、そのお金を搾取する人、利用する人、いろいろな立場があり、残念ながら全員がハッピーという解決はないからだ。

ひきこもりの対話会なども開催されているが、もっとひきこもりの生きやすい社会を、という方向性に話が向かってしまうとほぼ誰も何もできなくなる。ひきこもりにとって心地よい社会は普通の人にとっても心地よいからぜひそうなってほしいのだが、原始共産制のような社会がそれだとすると、資本主義ばりばりの現代からそこへ一気に向かうのはかなりの犠牲が必要になる。

実際にはGAFAであったり、中国の大企業であったりが世界の多くの富を集めてしまっているいっぽう、我々の生活はある面では非常に便利になっていて、その一方でいわゆる商店、小売り、あるいはサービス業もあらかたが店舗型では成立しなくなってきている。どんどん原始共産制に近くなっているようにも見える。

ただ、最終的に、通貨、あるいは不動産といったものが価値を持ち続けている間は、富の集中ということであり、苦しい人たちはより苦しくなってしまう、あるいは、追い込まれてしまうというのがここまでの歴史である。それに抗うためにはどんどん不必要なサービスや無駄な趣味商品を作り出す、あるいはアートや芸術を広めるというくらいしかない。

20世紀に欲しがったあらゆるもののほとんどは100円ショップを筆頭に、数十分の一の価値しか持たなくなったり、器がなくなったり、あるいは月間課金はあるもののごくわずかな費用で入手することができるようになった。その裏側では大量の雇用が失われ、平均所得も失われていることを忘れてはいけない。

その上、日本という国で考えれば、今後はますます低賃金化が進むいっぽう、人口や労働人口も坂を転がり落ちるように減っていくので、内需に頼っている、飲食店をはじめとする産業はどんどんシュリンクしてしまう。そう、対話会でいくら傷をなめあっても状況は悪くなる一方なのだ。

対話会の後工程として、今後の展望を伝え、その展望を実現するために各人がどのような役割を果たせるか果たしていかなければいけないか、ということを示唆できるコンサルタントが入る必要がある。もちろんそのビジョンは国なり経営者なり指導者が決めたものでなければならない。

そう。この国のビジョン、未来像と言うものが不透明な状態で、いくらひきこもりの対話会をやったところで何も先に進まない。この国の経営陣がバブルよもう一度、土建産業が未来を作ると新たな公共事業を続けている間は、この国の衰退は止めようがない。現状維持ですらもうすでに不可能なのであるから。

ひきこもりたちが活力を持ってはたらけていないくらいこの国には余裕がある、と考えることもできるが、前述のとおり、坂の転がり落ち具合は激しく、また要介護者の急速な増加に対応できる人的リソースが非常に不足している。さまざまな問題を同時に考えることができない人が国のトップであるというのは非常に不幸なことである。