8050問題の調査が難航しているようすです。調査が難航している、というより、8050問題のリアルが多岐にわたり、分類したり集計するのが大変困難なのです。「引きこもり問題」「ニート問題」が他の社会問題よりかなり厄介なのは、難しい言葉で言えば「客観的エビデンスが確立していない」ことにあります。

もう少し平たくいうと、「引きこもり」の言葉の定義があいまい、というよりほとんど、ない、のです。似た言葉として「隠居」というのがありました。落語に出てくる「ご隠居さん」は、自分がやっていた商売を子供や番頭に譲り、彼らからお小遣いをもらうことで生活しているご老体、ということになっていますが、実年齢はせいぜい50歳程度だったとも言われています。

大橋巨泉のような裕福な「楽隠居」に対して「素隠居」という概念も昔からありました。現代でもそういう人が少なからずいます。きっかけは様々で、若年性の癌や難病などに侵されて、だったり、仕事で無理をしすぎて心臓や循環器を侵されて、というケースもありますし、もともと若死にの家系だから、というケースもあります。

現在の日本はかなりおかしな社会で、60代、70代で死んでも「まだ若いのに」と放送されたり、40代後半を「働きざかり」とと言ったり、30代中盤でも「青年」と言ったりします。笑点の司会者の春風亭昇太は、もう60歳なのに「結婚できない男」と差別され、ともすると「若手」とまで言われています。

立川談志という落語家さんが47歳で独立団体を作り60歳には大御所と言われていたのに比べてこの四半世紀ほどで世の中全体が大変なマインドコントロールにより大きく変貌し、あらゆるモラルやマナー、「正しいこと」の軸が狂ってしまいました。昭和の人は「広辞苑に書いてある」「大辞林に書いてある」と言っていましたが、今はそんな辞書はほとんど役に立たなくなりつつあり、それでも「ウィキペディアに書いてある」という化石のような人もいます。

「ウィキペディアに書いてある!」と声高に言うような年齢の人は、実はウィキペディアなどに書いていない厳然とした事実がたくさんあるということを知っているはずですし、「辞書に書いてある」を言うことは無教養であることの証でもあるのですが、未だに新聞の社説のようなところにも辞書云々が引用されていて悲しい限りです。

スマホ、という発明がされて、まだ10年ぐらいしか経っていないのに、私たちの生活は激変してしまいました。「常識」は少なくとも10年ぐらい多くの人に共有されることによって、はじめて「知らないと恥ずかしいことば」となるのですが今は常識になる前に消えてしまうモノ、コト、概念、コトバ、があり、辞書は「オワコン」(昔は価値があったが今は一部のマニアをのぞいた人にとってはガラクタになってしまったもの、終わったコンテンツ、の略称ですが、「コンテンツ」そのものがまだ定義されていない言葉です)になってしまったのです。

今日のすばらしく便利な日本のデジタル化を推進した立役者だった、東京大学大学院教授だった高名なかたも「私は長生きできない家系なので」ということを生前ゼミ生にはよく言っていたそうで、60代前半にお亡くなりになった時も驚かなかった、ということです。

学生の頃は、50歳はおじいさんに見えましたし、60歳まで自分が生きることもあまりピンときていなかったと思います。定年を延長して65歳や70歳まで働けるようにしよう、とか、年金は70歳、75歳から、というと絶望感しか感じられなくなる気持ちがなぜわからないのでしょうか? 日本国民全員のやる気をなくさせるのが日本政府の仕事とはとても思えないのですけれども。

「引きこもり」だけでなく「半端ない」「もってる」「勇気をもらう」「感動を与える」など、けっして上品とは言えない気持ち悪い「エセ若者言葉」である言い回しも、辞書にはなかなか載りにくいです。流行語大賞に選ばれた言葉はほとんど消え去っていきますから。

私の記憶では「半端ない」を初めて聞いたのは2008年より前です。2010年には、すでに「パネェ」と略されていました。「パネェ」から見れば「半端ない」は正しい日本語にうつるのでしょうか? しかしパネェもすぐ消えて、「やばい」に飲み込まれました。最近「半端ない」がリバイバルしたことに非常に驚いたものです。

「いけてる」という言葉ですら、全然新しい言葉ではなく、少なくとも1972年放映のNHKのドラマの中で桃井かおりさんが「いけてるわあ」と言っていて、当時のドラマは脚本がすべて残っているので、アドリブではなく若者らしさを出すための言葉としてある程度定着していたのだと思われます。

「引きこもり」も、かなり語源が古く、イジメ問題が社会問題としてクローズアップされた時に発生した言葉ではありますが、イジメそのものは戦時中から常識的にありましたし、その当時は「よそ者や変わり者はいじめて村八分にするのが当然」という社会的コンセンサスまでありました。村八分にされた人は引きこもりにならざるを得なかったはずですし、西欧でも村の小高い丘の魔女伝説みたいなものもいくらもありました。つまり古典的な「引きこもり」は「イジメ」「村八分」とのセットで語られる概念でした。

「村八分」は村の共同体を守るために行われたもので、そのための犠牲者であり、みせしめとして引きこもりを社会が求めていた時代があります。現代のイジメも、転校生や優秀な子ども、独立心が高い人、社交的な人、美男美女、親が金持ちだったり権力者や先生の子供に対して行われることが鉄板で、「嫉妬されたらアウト」であることが知られています。

典型的な日本人は、優れている人に接した時に、うらやましいと思って、その人のようになろうと努力する人はほとんどおらず、嫉妬してなんとかその人を貶めることで、自尊心を保とうとします。要するにプライドの高い怠け者なのです。(「プライドの高い怠け者」は非常にしばしばニートの家族に向けられる言葉でもあります)。困ったことに人格的に問題がある人があらゆる組織でなぜか出世をし、能力のある人を組織から追い出すため、日本中の大企業は没落の一途をたどっているのです。しかしそれにも関わらず社会全体としてこの悪習を改めようという気配はいまだにありません。

日本社会は「引きこもり」を「必要悪」として作り出しておきながら、時々「支援するふり」を見せることがあります。しかし、多くの場合は非常に限定的であり、それどころか引きこもりの全体像を把握することすらできないでいる現状があります。そんな中、村八分を受けている当人が不当な扱いを訴えようにも日本の法律ではそもそも守られていませんし、非常に残念なことに「村八分にされるほうが悪い」という認識を持っている人も少なくありません。

他人を村八分にしている、とか村八分にされている、というのは名誉なことではないことは理解しているので、「引きこもり」の実態調査は多くは空振りに終わります。実際に引きこもり扱いされている人の1割以下しかカウントされなくなります。しかし、高齢化率が20%をとっくに突破して「楽隠居」の人たちが人口の数割いる世の中で「引きこもり」が数十万人しかいない、などということはちょっと考えただけでもありえないのです。

引きこもりの長期化は10年前には許されてきましたが、現在は待ったなしで解決しなければいけない問題です。というのも、スマホの登場以降、世の中がものすごいスピードで走りはじめたからです。昔は30年ひとむかし、とか、それがドッグイヤーだよ、と10年ひとむかし、と言っていたものが、もう3年ぐらいで常識がどんどん変わるようになってしまっているのです。

高齢者であることをあきらめてしまった高齢者と同様に、引きこもっている人たちの常識は驚くほど古く、私どもですら困惑してしまうこともあります。そうなってしまうと、社会に溶け込んで働くということが不可能になってしまうわけです。そうならないために、一刻も早く救い出すことが社会の急務ですし、私どももできる限りのことをしているつもりです。

「引きこもり問題」は厚生労働省管轄になっているようなのですが、日本にとっては経済産業省管轄の事案であると思います。日本の貴重な労働力、たくさんの知能がさびついたまま埋もれてしまってGNPに貢献するどころか足を引っ張っているわけですから。社会構造を変革し、引きこもりが活躍できる世の中になれば日本はかなり成長する伸びしろがあると確信しています。

引きこもりを存在しないことにしたり、邪魔者扱いするのではなく、世の中全体をマネジメントしなおして、真に日本のことを考えて動き始めてほしい、時間やコストはかかりますが、ないものねだりをするより現実的だと思いませんか?