「引きこもり」「ニート」問題に酷似していて誰も指摘しない社会問題がある。「捨て猫問題」「ペットの違法投棄問題」だ。
おそらくメディアは動物の人間を一緒にすることにアレルギーがあるため、同列に取り扱わないのだろうが、そのおかげで議論が進みにくい。
以前テリー伊藤氏が「捨て猫を殺処分しないのは行政の怠慢」ととれるような発言をして物議をかもしたことがあったが、テリー伊藤氏を快く思っていない人が反駁をしていただけで、具体的な対案と言うものはなかった。
猫と言う動物は時に愛くるしく、仔猫を悪魔扱いする人はいない、どころか愛くるしい人を仔猫のようだ、と表現するくらい人に近しい。段ボール箱に捨てられている仔猫を飼いたくなる気持ちは理解できる。
しかし猫は20年生きる動物で、餌代やペット可の賃貸住宅を探さないといけない、爪とぎなどをされて補修費用が高くつく、去勢費用を払わなければならない、という経済的な問題もさることながら、生活が破壊される可能性を秘めている。
マンションの一室などでこっそり猫を飼おうとすると、人間は在宅している間は猫のペースで生きなければならない。猫に限らず小動物がところ構わず排泄するのにはうんざりする。
最近でこそペット向けのオムツなどもできてきたし、ペットに服を着せるというのも十数年前に初めて見た時には、飼い主の神経を疑ったものだが、今や裸、もといけむくじゃらの動物を見る機会の方が少ないかもしれない。
捨て猫を見つけてしまったら、今の都会人が取れる対応は二つに一つになる。一つは安直のようで大変な苦労をしょい込む、飼い猫、もしくは(本当はダメですが)放し飼いにすること、もう一つは保健所に届け最悪の場合里親が見つからなければ察処分にされてしまうことを承知で預けること。
現在の都会人、あるいは田舎の人も意外に残酷で、冷酷な一面を持っている人は実に多い。その一方、十分な対応ができない場合には、早めに逃げる、というのも大切な自分の命を守るための手段である。
人間の死刑だけでなくペットの殺処分については批判する人はとても多い。しかし彼らは対案を持ち合わせておらず命を奪うという精神的にタフな仕事を他人に押しつけておきながら自分はいい人ぶっている。実際に仕事として命を奪ったり弔ったりする人と、他人に押し付けて知らん顔をする人のどちらが人としてダメなのは議論するまでもないことのように思うが。
田舎にいくと第三の選択肢がある。去勢手術は行うが、野良猫は野良猫として地域で飼う、野良猫の自由を奪わない、というものだ。考えても見てほしい。自由気ままに暮らしていた猫をマンションの一室に閉じ込めて一生生活させることがその猫にとって幸せなのかどうか? それも、猫は相手を選ぶことができない。人間でも同じ人と何十年も生活することができなくて何度も離婚する人はいるのに、猫は奴隷のように部屋に閉じ込めらたり、「癒されるよねー」とか言うわがままな飼い主の相手をしなくてはならない。しかも有給休暇もなければそもそも給料も支払われない。ブラック企業もいいところではないか??
しかし、野良猫の人権を守れ、というような話はほとんど聞こえてこない。捨て猫の厄介な問題の方が大きいので、それどころではないし、日本人全体がとても不寛容な社会になってしまっているので、野良猫という言葉自体も消え去りつつある。
野良猫、以前に、昔は野良犬などというのも現在の高級住宅地にいくらでもうろうろしていたものである。たいていはかなり共謀で人を襲ったりする。あるいは子供たちがいじめるのに対して反撃をしたりする。昔は子供も大人も攻撃的で野蛮だったから犬に噛まれて病院に行った思い出がある人は現在の60歳代以上ではざらにいるだろう。いっぽう、40歳以下の人は野良犬を街中でみたことがある、という人はほとんどいないはずだ。
昔は野犬を狩る商売があった。今でもペットを引き取ることで生計を立てている人もいる。大型犬となると40万円もする。商売ではなく、便利屋としてそうしたことをしていた人のおかげで爬虫類を食べたこともある。そのことをもって残酷である、というようなことを言われる筋合いはない。残酷なのは、大きくなりすぎて変えなくなった知り合いに処分を依頼した飼い主だ。
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他人に危害を加えなければ野良猫はいてもいい、と多くの人がぼんやりと思っているようだ。現代問題研究所付近でも野良猫の餌やりおばさん、というのが出没し、近隣住民は非難している。糞尿の処分をさせられるのに去勢手術をするわけでもなく、餌をばらまいていいことをしたつもりになっていることに対してやっかみも含めて快く思わない。
当地では鳩オジサン、烏爺さん、などというのもいて、名物になっていたりした。多くは不遇そうな身なりをしているので、面と向かって苦情を言う人はいないが、糞害に憤慨している人は少なくない。
ところで、私たち55歳以上の人間は、野良猫、ならぬ野良人間を何人も知っている。たとえば「男はつらいよ」の主人公である渥美清演じるところの「フーテンの寅さん」がそうだ。
一応「テキ屋」という設定になっているが何を路上販売しているのかは定かではなく大荷物を持って歩いているような姿もない。さっそうとカバン一つで、当時としてもちょっと時代錯誤な古臭い恰好で歩いている。
寅さんはイメージ戦略を大事にしていて、いつみてもだいたい同じ服装で、タクシーに乗ったり、満員電車に乗ったり、ということは、ない。歩いて移動しているとは考えられないのだが全国に出没する。沖縄まで行ってしまう。
家族にとっては非常に迷惑な存在でいい年をして結婚していないばかりか、時々実家の団子屋に帰ってきて女性がらみで騒動を起こして周りの人を困らせる。周囲の人は迷惑がりながらもどこか寅さんを愛しているようなのだが、それも一年のほとんどを旅の空の下で暮らしていてなかなか実家にいつかないことも大きな理由だ。
野良猫も年に一か月ぐらいだったら飼ってもいいよ、という人はいくらでもいるのではないか。実際に猫をレンタルしている商売もすでにある。老人ホームなどで、生き物と触れ合うことで表情が戻ったりうるおいが出てくる、ということで「××療法」というもっともらしい名前をつけてコンタクトが行われる。ただ、本格的な世話をすることはない。
15年ほど前から流行っている猫カフェなども同じようなものだろう。昔は飲食店のカウンターに猫があぐらをかいていようものなら店主はこっぴどく叱られたものだが、世の中が長引く不況、ブラック企業化、非正規雇用者だらけ、パワハラの横行になりどんどんギスギスしていることから、食品衛生的には多分に問題を抱えつつも大ヒットしただけでなくすっかり定着している。
寅さんだけではない。メリーポピンズも野良人だ。空からやってきて、家庭教師になっていろいろな魔法を繰り出す。サウンドオブミュージックも家庭教師の話だし、チキチキバンバンも魔法使いの話だが、家庭教師であることをいいことにかなり自己中心的な行動をして周りを困らせる。寅さんもポピンズもフィクションなので、周りは良い影響を受けたかのようになるし、どこが「つらいよ」なのかよくわからないけれど、野良人を受け入れる社会の度量みたいなものがあったのかもしれない。
「包丁一本さらしに巻いて」ではないけれども料理人なども腕さえあれば食べるのに困らない、というし、医師や看護師も引く手あまたの時代がありました。今は調理師免許などほぼ役に立ちませんが、昔は何か資格さえあればどこででも生きていける、という妙な自信とか感覚を持つことに奇異に思われることはなかったのだ。
ところが、バブルの頃に受験戦争というよいうなものが起きて、いい大学に入りいい就職をすれば一生タラタラやっていても一生懸命仕事に打ち込んで真っ黒になって働くより多額の給料がもらえるぞ、というような話が一般化され、日本人の生活力や生命力が格段に落ちた。
今でも職人や技術者は野良人だ。例えばオーケストラの指揮者など華やかそうに見えるが、クラシック音楽を趣味で聴く人が爆発的に増えているわけではない一方で世界中のオーケストラ数にも限りがあるため、非常に激しい椅子取りゲームを展開している一方、日々違う場所で、ママさん合唱団や学生のブラスバンドの指揮から世界最高峰のオーケストラの指揮までこなしている人は本当に多い。ママさんコーラスの指揮を断るようでは食べていけないくらいの世界なのだ。それをしなくていいのは本当に一握りのひとだけだ。
残念ながら「フーテンの寅」は1969年から95年までのシリーズ映画だったので、ミレニアル世代はもちろん、現在の社会の中心になっている30歳代の人たちも映画の存在すら全く知らないしわからない。1999年に世界の破滅が来るかもしれない、とうっすら覚えている人たちがいたとしても、中学生ぐらいで寅さん映画を見る人は本当に希少だ。だから、寅さんを持ち出しても、野良猫生活という生き方もありだよ、という説得材料にはならない。
でもさ、毎日、いろんな違うところに行って、そこらへんの人を集めておしゃべりするのを仕事にしていて、いい年をして結婚もできなくて、そのことを会う人からガンガン指摘されながらも笑ってやりすごしている、そういうおっさんは今でもテレビの中にいるんだよ。
今度落語芸術協会の会長になった春風亭昇太がそうだ。記録的長寿番組「笑点」の司会でも有名だが、元々は新作落語のホープと言われて新作落語しかやらなかった、傍流の芸人だ。
彼も渥美清同様、永遠の40代を演じているが(髪の毛は他のアナウンサー同様ウィグなど人工的なものだろう)、もう還暦近く実社会では若手というのには少し無理があるが、90歳超えの先年亡くなった歌丸の師匠である米丸師匠がまだまだ新作を作り続けて頑張っているので、この団体では60前後は若手と呼ばれる。そして寅次郎同様、というより渥美清とは違い実生活でも独身を貫いている。
そんな、大スター、とは比較にならない、という指摘は全く当たっていない。こんにちの落語ブームは誰にも予想できなかったからだ。昇太の落語への傾倒のきっかけは師匠である春風亭柳昇がなぜか女子大生に人気が出て、落語おもしろ亭などの番組で活躍したからともいえるが、今日の落語ブームの基礎を作ったのはいまだに日本の落語テレビ番組を妙な形で牛耳っているイーストという番組制作プロダクションの今野徹氏に口説かれた立川談志がMCと客寄せパンダをやった落語のピンという伝説の落語だけやる番組だろう。
この番組で落語界は息を吹き返し、春風亭昇太は新作落語だけではなく古典落語が評価されるようになり、落語の型が壊され、落語家を目指す若い人が増え、昔は東京には60人しかいなかった真打ちが現在では400人以上、落語界全体で900人もの職業落語家ができたが、つい数年前までは、今なら400人のキャパの箱が一瞬で売り切れる落語家の出演するような新宿の小さな箱での演芸会、しかも入場料がたった千円でも、お客が7人くらいしかいない、ということが珍しくなかったことを忘れてはいけない。
浅草演芸ホールのように、詰め込めば500人くらい入る寄席でも、お客が30人くらいしかいない時代は本当に長く続いた。今でこそ読売新聞の招待客で連日満席だが、それでも有料入場者数は100人に満たない寄席が少なくとも都内に4軒はある。寄席の数え方にもよってしまうのだが、業界では一応365日興行をしているところを寄席と呼ぶ習わしがあり、それだと、現存する寄席は4軒しかなくなってしまう。それに月15日以上公演を実施している国立、上野広小路、両国、日本橋を入れれば8軒となるし、それ以外にも地域寄席ということできちんとした劇場許可をとっていないものを含めてもやはり20軒には届かない。
本当に少し前まで、今でも平日などではたまに、一日の入場者数が40人程度しかいないことがある。その一方で、出演者は約40人いる。そのほかに三味線や受付スタッフなどもいる。
昔から計算するまでもなく、落語家は落語を一席喋っても立ち食いの天ぷらそばいっぱいぐらいにしかならない、と言われていたし今も状況はあまり変わらない人もいる。
前座修行となるとさらに悲惨で、一日の日当が1000円である。月収5万円くらいでなんとかやりくりしている、実家に泣きついている、と言う人も未だ大勢いる。
春風亭昇太がそうならず、会長になれたというのはすごい出世、ジャパニーズドリームなのだ。しかし、それでも配偶者も子供もいない。おまけに結婚できないキャラとしていじめにあっている。それが現実だ。
ほとんどの芸術家がそうであるように、落語家も「おだん」と呼ばれるパトロン、スポンサーがいて(それが奥さんであったりそのために何回も離婚を繰り返す人もいるが)それでなんとか生活できているという状態だ。まさに野良猫と変わらない。
だから野良猫のような生活がダメ、なのではなく、野良猫のように生きていければいい、なのだ。野良猫にするためには家から追い出す、というのも一つの手段だろう。あるいは腹を割ってとことん話し合うという必要もあるだろう。ただ、親子や兄弟だけでそれをすることは危険でしかない。そこに世慣れた人間を介在させる必要がある。
ただ、その受け皿となれる資質を持つ人は非常にまれなのも確かだ。公的機関や、資格を持つ人であっても資質がなかったり、人間である以上相性もあるので簡単ではない。
しかし、家族の引きこもりに悩む人たちの話を聞くと、全員が、というわけではないが、公的機関に厭なことを押し付けて逃げてしまいたい、という人がかなりの割合でいる。
極端な話、そういう人たちをまとめてトラックに乗せ、そのまま船に乗せ、どこか離島か外国にでも捨ててきてほしい、あるいは殺処分してくれても構わない、と聞こえる。
そういっているわけではないが、そこまで追い詰められていることがアンケートなどからは見えてくる。話していても伝わってくる(もちろんそういう人ばかりではない。本当に困っているだけの人もいる)。
自分たち家族は、こんなに頑張って仕事して一生懸命節約して生きているのにお金もなければ遊ぶ時間もない。あるいはなけなしの年金をなんとかやりくりして、家や身体に不具合があったとしてもなんとか我慢しているのに、健康な身体に見えるのに毎日ぶらぶらしていて、働くようすもなければ謙虚にふるまう様子もない。どこか目の届かないところに行ってほしいと思うのはしかたがない。
しかし残念ながら公的機関はこうした実態に対してほとんど無力だ。もちろん殺処分はとんでもないし、隔離政策もできない。合宿設備を持っている施設もあるが運用されてはいない。民間でもそうした施設はあるにはあるが、語りつくせないほど問題が多い。
行政が行う場合は広く均一なサービスの提供になる。残念ながら均一にすると全体としてサービスの質は落ちるか、その中での個人差が大きくなってしまう。
福祉全般に言えることだが、従事者の給料の低さがありえない。社会貢献を行っている人から税金を徴収することは必要なのか疑問も多い。
サービスを提供する人間が幸せでなくて、どうして役務利用者を幸せにすることができよう。人件費を含めた待遇が悪いところには志の高い人が集まったとしても長続きせず、サービスの低下を招いてしまう。これは避けられない。
しかも世の中は捨て猫・棄て人問題だけではない。社会問題は非常に多岐にわたり、誰かがトリアージをつけ、特にクリティカルな問題にはより高度なスキルを持つ人材をあてがわざるを得なくなる。
あるいは適応できないスタッフが消化できない仕事を受け持つことになってしまうことで制度破たんが起きる。人間の命を預かっていることの重みを認識できない人がドライバーや飛行士をすると酔っ払い運転をすることになり、いつか大事故になる。
今の社会全体は「はみ出す」ことへの恐怖感が強い。「はみ出し者」「はぐれもの」「野良人」「一匹狼」を許さず、とにかく管理、管理である。
社会全体がどんどん不寛容になり、息苦しさを増している。50代後半以上はなんらかの病気に罹患している率が高く、皮肉なことに医学の進歩とともに病気の発見率が高くなっていることから、老衰が認められなくなってしまった。
癌は昭和の末期には3人に一人が罹患する病気だったが、平成の末期には2人に一人が罹患する病気になった。誤嚥性肺炎など老化現象による事故ではあるが、完全に老衰の域だが病名がつけられてしまう。
3人に1人が老人になる、ということは、3人に1人が病人になる、ということとほぼイコールである。社会全体が陰鬱とし、保守的思考でがんじがらめになり、「ふつうの人」が全人口の二割しかいない、というとても奇妙な状態になる。いや、そうではない。これからの「ふつうの人」は老人であり、病人である。そうしないと計算が合わない。
もう少し野良人を認めよう。「変わっている」「他人と違う」「ふつう」「常識」という言葉を使うのをやめよう。他人と違うのが当たり前なのだから。
他人を蹴落とす人間、選民意識の強い人にはもっと厳しい目を向けること、弱い人にはできるだけ救いの手を差し伸べること。世の中全体が意識変革できれば、ほとんどの社会問題は発生しない。発生しなければ解決する必要もない。寅さんが生きられない世の中で、いいんですか?
鴻巣尚史